市川の謎

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ほとんど、千葉の人間しか話題にならない話で、すいません。

JR市川駅といえば、総武線沿線(千葉側)で東京に一番近い駅ですが、快速はとまるものの、印象が薄い駅です。駅を降りても、市川の駅前って、とくに何かあるわけではありません。観光スポットは今では里見公園くらい。デパートでも、船橋には、東武百貨店となぜか西武百貨店があります。おまけに、少し離れたところには、ららぽーとTOKYO-BAYもありますが、市川には何もありません。三越が昔ありましたが、今はなんか違う商業施設に変わっています。そもそも、市役所もお隣の本八幡にあります。

いったい市川って歴史的にどんなまちかと、少し調べました。地名の由来は、ほとりで市場が開かれる川があるので、市川というそうです。そして、古代から中世には下総の国の国府がおかれたそうです。だから、国府台という場所があるのです。近くには国分寺国分尼寺もあり、国分(こくぶん)という地名は、国分寺があったためです。

そして、文学の世界では、真間の手児奈という女性が、万葉集にたくさん出てきます。手児奈は「若い娘さん」というくらいの意味で、名前ではありません。そのプロフィールも、国造の娘、巫女、普通の娘、男性の夜の相手をする遊女とさまざまな説があり、不明です。あまりの美貌で、複数の男性から求婚されて、悩み入水自殺したという伝説があります。その関係で、江戸時代にはJR市川駅に近い、市川真間は観光スポットだったみたい。真間にある、真間山弘法寺は、日蓮宗の大きなお寺ですが、ここにも涙石とか、不思議な伝承があります。

そういう歴史や伝説がある関係で、市川は意外にメジャーな街になり、市川駅みたいな何の変哲もない駅に、快速がとまったりするのかな。

源頼朝が、千葉一族と会ったのも、この国府台だそうで、千葉常胤という人が息子の六人兄弟を連れてきたとか。この千葉一族は、千葉県の市原から千葉に進出し、千葉城を作りました。
千葉へ行くと、千葉神社とか千葉寺とかあり、月に星の紋章とか、そういうところはみな使っていますが、これは千葉一族の妙見神(北極星または北斗七星を示している)の信仰によるそうです。

ということは、江戸が浅草寺寛永寺で鬼門をおさえ、裏鬼門に赤坂の日枝神社、西に芝増上寺というように守られたように、千葉もなにかそういうので守られているかも。

ちょっと、脱線しましたが、市川の国分には、千葉一族の国分五郎さんがいたそうですが、戦国時代頃には国分さん一族はいなかったみたいです。なぜか、戦国時代には市川国府台には里見氏が立てこもり、小田原北条氏と合戦を2回もしています。その国府台合戦は、千葉市の南のほうの小弓城を上総の武田氏が攻め、そこにいた千葉氏重臣の原氏を追い払ったことが原因で、原氏が北条氏を頼り、千葉氏も北条についた一方、武田氏が安房の里見氏と結んで、足利一族の足利義明小弓公方)をかついだことから、紛争が大きくなり、国府台で合戦をするところまでいったんだそうです。

でも、もともと千葉一族が拠点としていたはずの市川に、なぜ里見氏などが立てこもれたのかが、よく分かりません。国府台城は太田道灌さんが作った城だそうですが、古くなっていろいろ直したりしたはずなのに、ほとんど敵の陣地でよくそんなことができたと思います。なお、上総の武田氏は、武田信玄さんの親戚みたいで、上総での初代は武田信長というすごい名前の人。この人は甲斐の守護に自分の息子をつけようとして失敗し、上総に進出して、無茶苦茶した暴れん坊でした。なにせ、姓は武田、名は信長ですから。

その直接の当事者である武田氏は、国府台合戦では積極的に出てこなかったみたい。関係なかったはずの里見氏は、合戦に巻き込まれ、特に第二次国府台合戦はほとんど里見氏対北条氏になったようです。里見公園には、里見の武将がなくなったことを里見の姫が悲しんだ故事にもとづく、夜泣き石とか、いろいろ怖いものがあります。

あと、市川中心部を流れる真間川。今は流れているのかどうか分からないくらいですが、昔はよく氾濫したとか。桜が植えられていてきれいな場所もあり、案内板も立っていますが、あたしが思うに他の名所のように遠くから来て花見をするほどのことはないようです。

菅野は、平将門を祈祷で倒そうとしたひとが、菅野という名前で、その人が住んでいたから菅野というそうですが、本当でしょうか。近くにある八幡の藪知らずという森も、平将門のお墓だという説があり、水戸黄門がそこにはいって出られなくなったという伝承があります。