サクラ咲く Oh! 真間、真間~
桜といえば、もう言うまでもなく、日本を象徴するような花。
ぱっと咲いて、ぱっと散る。その潔さと美しさ。
今年も桜のシーズンとなり、あたしもお花見、というより桜の写真を撮りに。
といっても、東京の上野公園とか日比谷公園、千葉では千葉城とか、有名なお花見スポットがあるのは知っていますが、あまり遠出もする気になれず、近場の市川市菅野から手児奈霊堂を通って、真間山弘法寺へ行きました。
菅野には、文豪の永井荷風が住んでいたので、永井荷風は、桜土手を散歩したそうです。真間川は、地元ではあまりよく言われませんが、桜土手はまあ良いかな。
今回行ってみると桜土手には、きれいな桜(ソメイヨシノ)が咲いていました。
今回行ってみると桜土手には、きれいな桜(ソメイヨシノ)が咲いていました。
![イメージ 1](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/aikokunohana1938/20010101/20010101021140.jpg)
ちょっと俳句が浮かんだので、恥ずかしながらご披露。
文豪も 歩みし真間の 桜土手
伏姫桜は枝垂桜の大木で、有名です。枝垂桜もいいですね。伏姫といえば、里見八犬伝に出てくる里見の姫君ですが、なぜ弘法寺の桜に里見氏にまつわる名前がつけられたのかは不明ですが、近くに里見公園があり、戦国時代に里見氏が陣取って、小田原北条氏と戦ったことから関連づけられたのかも。
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/aikokunohana1938/20010101/20010101021150.jpg)
「ここ真間山、弘法寺(ぐほうじ)は奈良時代、天平九年(737)、行基菩薩がこの地にお立ち寄りになられた折、里の娘、手児奈の哀話をお聞きになり、いたくその心情を哀れに思われ、一宇(いちう)を建てて『求法寺(ぐほうじ)』と名づけ、手厚くその霊を弔われた。
それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、『求法寺』を『弘法寺』と改称された。
それからおよそ百年ほど経た平安時代、弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が教えを弘められるためにおいでになられた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して、『求法寺』を『弘法寺』と改称された。
その後、鎌倉時代に入り、建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信(りょうしょうほういんそんしん)と、中山法華経寺、富木常忍公(ときじょうにんこう)との間に問答があり、日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人(いよぼうにっちょうしょうにん)を対決させられた。
なるほど、討論に勝った日蓮宗に宗旨替えしたんですね。
それはともかくとして、境内を見渡すと、「国府台砲兵の碑」というのがありました。そして、その石碑のわきには、なにやらフレンドリーな歌詞の歌の碑が。
「襟には栄ゆる山吹色に・・・」 これは「砲兵の歌」です。
もっとも、あたしのおじいさんは、ずっと関西にいて市川には戦時中も来なかったので、「国府台砲兵」とは関係ありませんが。
「襟には栄ゆる山吹色に・・・」 これは「砲兵の歌」です。
もっとも、あたしのおじいさんは、ずっと関西にいて市川には戦時中も来なかったので、「国府台砲兵」とは関係ありませんが。
![イメージ 3](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/aikokunohana1938/20010101/20010101021200.jpg)