ディエン・ビエン・フーの戦い

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ディエン・ビエン・フーは、ベトナムの地名。

なにか、耳障りのよくない、変な地名と思うかもしれませんが、ここはベトナムの人たちの民族解放にとって記念すべき戦いの行われた土地です。

ベトナムは、むかし仏領インドシナと呼ばれていました。仏領というくらいだから、フランスの植民地だったわけです。ベトナムは、中国の南にあって、越南とか呼ばれていました。その仏領インドシナに日本軍が進駐したのが、1940年(昭和15年)と1941年(昭和16年)、1945年(昭和20年)3月にバオダイ帝が日本軍の後押しで独立を宣言したものの、8月にはホー・チ・ミン率いるベトナム独立同盟が八月革命でハノイを占拠、9月にはベトナム民主共和国を樹立し、ホー・チ・ミンが初代大統領になりました。

しかし、もとはフランスの植民地だったわけで、フランスが黙っていませんでした。翌1946年(昭和21年)フランスが軍を進め、11月には武力衝突となり、1954年(昭和29年)まで第一次インドシナ戦争として戦争が続きました。その間、1949年(昭和24年)にはサイゴンを拠点にフランスがバオダイを復位させベトナム国としました。その第一次インドシナ戦争の最後のころ、1953年(昭和28年)11月から1954年(昭和29年)にかけて戦われたのがディエン・ビエン・フーの戦いです。

ディエン・ビエン・フーはベトナム北西部、ラオスに近い町で、盆地になっていて、フランス軍はここに要塞を築き、今までの劣勢をはねかえすことを目指していました。その要塞はイザベル、ガブリエルといった女性の名がつけられた、いくつかの陣地から成り立っていました。旧日本軍の飛行場を改修したディエン・ビエン・フー飛行場には、フランスの輸送機が連日飛来し、総兵力は1週間で1万人を超えました。フランス軍は1954年(昭和29年)3月までに、大砲40余門、飛行場も2つある、堅固な要塞を完成させました。その要塞の司令官は、ド・カストリ大佐(のちに准将)が任命されました。

しかし、その圧倒的な火力をもつフランス軍に対し、ベトナム軍は、ディエン・ビエン・フーを取り巻く山の上に陣地を築きました。1954年(昭和29年)3月12日、ボー・グエン・ザップ将軍率いるベトナム軍は、主滑走路に砲撃を始めました。

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フランス軍はまさかベトナム軍が山の上から砲撃してくるとは思っていなかったようですが、ベトナム軍は山の陣地に中国から送られたソ連製の対空機関砲や日本軍からの分捕り品である山砲を設置し、砲撃するなどしてフランス軍を追い詰めました。こうして砲撃をバックに、フランス軍の陣地に塹壕を掘って接近し、ひとつずつ潰していく戦術をベトナム軍はとりました。また4月には要塞飛行場の滑走路の一部をベトナム軍がおさえ、飛行機によるハノイ(当時はフランス軍の拠点)からの物資輸送が落下傘での投下以外は事実上できなくなり、補給の面でもフランス軍は苦境に立たされます。フランス軍は5月には要塞最南端にあるイザベル陣地を残して、陣地をベトナム軍に奪取され、ド・カストリの司令部まで急襲されてド・カストリは捕虜となりました。実は、フランス軍には正規軍以外に、タイ族ベトナム人アルジェリア人、ドイツ人などの外人部隊が多くいて、それらのなかには戦意の低いものも少なくありませんでした。

結局、フランス軍は壊滅的な打撃をうけ、ベトナムから撤退を余儀なくされました。2万人強のフランス軍部隊のうち、戦死行方不明が2,700人、負傷4,400人で1万人以上が捕虜となりました。一方、ベトナム側ですが、10万人以上とみられる人民軍のうち、戦死7,900人、15,000人が負傷したそうです。

このベトナム軍の勝利がジュネーブ協定(7月21日成立)につながったことは、いうまでもありません。フランス軍ベトナムから去っていきましたが、アメリカが介入することになりました。バオダイのあと、南ベトナムベトナム共和国をつくっていたゴ・ディン・ジエム政府は、ベトナム民主共和国と自由選挙協議を行うことを拒否し、協定で定められた南北統一選挙は実現しませんでした。ゴ・ディン・ジエム政府はカトリック信徒の支持をうける一方、南にいた愛国者民族主義者たちを秘密警察をつかって弾圧しました。ゴ・ディン・ジエム政府はアメリカから援助をうけ、アメリカの傀儡政府といわれましたが、ゴ・ディン・ジエム自身はCIAの支援をうけた反乱軍のクーデターにより、殺害されます。その後、1967年にグエン・バン・チュー政権ができるまで、南ベトナムではクーデターが繰り返され、政情不安となりました。そのアメリカが事実上支配する南ベトナムと、本来ベトナム人が築いたベトナム民主共和国の間での統一に向けた戦いは、アメリカ(およびその傀儡政権)対ベトナムという構図となり、ベトナムはさらに長い第二次インドシナ戦争ベトナム戦争)を戦うことになりますが、1975年(昭和50年)4月30日、サイゴンが解放され最終的に勝利します。

(写真:上はハノイ市街、下はボー・グエン・ザップ(左)とホー・チ・ミン
 上の写真は、風景写真壁紙 http://fkdk.net/info.htm 
 (海外で撮影した写真と壁紙が多数)よりお借りしました。