大阪の旧軍遺跡を見に行く(4)

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お昼前梅田に着いた頃、携帯が鳴りました。甲東園のおじさんからでした。大阪に一人で出かけていったあたしを心配したお父さんが、おじさんに何か頼んだみたいで、これから西淡路へ行くというと、ちょっと梅田の新阪急ホテルのロビーで待っててくれ、1時までにおじさんとその息子、つまりあたしのいとこと行くから、それまでお茶でも飲んでてくれということでした。おじさんは七十才くらいで、いとこは私より年長で四十才近かったと思います。その二人に会うのも何年ぶりでしょう。

12時半過ぎに、おじさんたちがきました。おじさんは、「大阪まで出てくるなら、連絡してくれれば、迎えに行ったのに」と言っていました。おじさん、ごめんなさい。そして、三人で阪急三番街に食事に行きました。

おじいさんのいた高射砲部隊の高射砲の台座が淡路に残っていたと聞いたんで見にきたというと、「もともと、花子のおじいさんのいたのは、信太山の野砲兵連隊や。そこが長かった。昭和13年ごろに中隊長で中国の広東に攻めていって、中国から帰ってからもまた信太山へ行った。高射砲部隊にいたんは、その後やろ」とおじさんは言っていました。

西淡路五丁目という番地だけを頼りに、阪急電車に乗り込んだ三人、淡路駅を降りると、いきなり商店街のアーケードが続いています。なんだか、すごく庶民的な街だなと思っていると、いとこが阪急京都線の大阪に近いところは、こんな街が多いと言っていました。商店街を抜けると、工場と住宅地がある場所に出ましたが、住宅表示を見ると近づいている感じです。団地のなかをワラビもちを売っている車が走っていますし、周りを見ても住宅密集地帯、こんなところに高射砲の砲台などあるのでしょうか。

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ふと見ると、小さな墓地があり、尖った角柱の大きなお墓があります。それは、戦死した人たちのお墓、だからこの付近も古い住宅地だったようです。確かにピースおおさかの職員のかたも、分かりにくいので、着いたら誰かに聞いたほうが良いですよと言っていた通り、砲台がどこにあるのか全然分かりません。
しばらく歩いて、おじさんが店で聞けばいいと、古い文具店兼タバコ屋さんのような店に入っていきました。応対に出たのは、縮んだように小さなおじいさん、「高射砲ですか。それなら」と親切にも道に出て教えてくれました。

「あのマンションの横に路地がありますねん。そこを入っていくと、三つあります。保存されているとかでなしに、きれいなことないですよ。人が住んでますねん、不法占拠で」ということでした。
おじいさんにお礼を言って、三人で、そのマンションの横の人が二人並んで歩けないくらいの路地へ。
すると、すぐ目の前に現れた、このコンクリートの塊には、確かに人が住んだ形跡があります。
八角形以上ありそうな多角形の屋根状のものに、やはり多角形の基部がついています。高射砲はその基部にたてられ、砲弾を屋根状のところから入れたのでしょうか。

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しかし、日本が戦争に負けて、高射砲の砲台はそのまま放置されたのでしょう。そして、砲台には焼け出された人か、大陸からの引揚者か分からないけれど、住みついてしまった。もしかして、不法占拠とは、ここも「アパッチ族」?

ちょっと怖いお兄さんとか、住んでいるのかしら。あたしが一人で足を踏み入れると、「あーれー」と帯をクルクル解かれて、押し倒されるとかして非常に危なかったのかも(もっとも帯はしてませんが・・・)。幸い、おじさんといとこがいてくれて、心強かった。

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すると、なにやら砲台を改造し、増築した住宅?に、前の畑を耕していたおじさんが入っていくみたい。やっぱり人が住んでいるけど、どんなつもりで住んでいるだろう。終戦直後ならともかく、今は戦後60年以上たっているというのに。おじいさんたちが大阪の街を守るために砲弾を撃っていた高射砲の砲台に、得体のしれない人たちが住んでいるなんて。ああ、ショック。

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「花子、まあこんなもんや。でも、おじいさんは立派な軍人やったで。おじさんが小さい頃、丹波の家にな、白い馬に乗って帰ってきてな」とおじさんは言っていましたが、おじさん自身もショックを受けたようでした。その晩は、甲東園のおじさんの家に泊まりました。いとこのパソコンを借りて、インターネットで今日見たことを検索してみました。すると意外なことに、高射砲の砲台のことも結構でているではありませんか。

翌日いとこの車で三人で丹波へ行って、おじいさんのお墓参りをしました。なぜか、お墓の前で泣けて泣けて。そして、大阪まで送ってもらい、自宅へ帰りました。2泊しただけなのに、ずいぶん長い間関西にいたような気がしました。