大阪の旧軍遺跡を見に行く(3)

ピースおおさかで、高射砲跡の場所を聞いたあと、元海軍軍人のおじいさんから聞いていた大阪陸軍造兵廠、元の大阪砲兵工廠のあとを見にいきました。
これは森之宮のピースおおさかとは正反対の天満橋から京橋の辺にあります。歩いていくのはちょっと大変そうなので、地下鉄で天満橋まで行きましたが、後で地図をみると森之宮から歩いてもそう変わらなかったかもしれません。

大手前学園やら追手門学院という学校があり、そこが大阪城の大手門があった場所に近い場所であることが分ります。
お堀沿いに歩くと、お堀のなかにカルガモちゃんかな、10羽くらい泳いでいました。

1870年(明治3年)2月3日、幕府の長崎製鉄所の機械および技術者、職工を移設して出来た大阪造兵司が大阪陸軍造兵廠のルーツです。それが、1879年(明治12年)大阪砲兵工廠となり、陸軍の大砲・戦車などを造っていたようですが、1940年(昭和15年)4月1日、陸軍兵器本部の設置に伴い、大阪陸軍造兵廠となって、6万人くらいのひとが働く陸軍の巨大兵器工場になりました。
敷地も広く、大阪城の東隣一帯、大阪城公園大阪ビジネスパークも含めた場所が、この敷地で、現:大阪城ホールは、この本館があった場所です。

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1945年(昭和20年)6,7月と終戦の前日の8月14日午後、三度米軍機による空襲にあい、ついに全焼してしまいました。焼跡は不発弾があって危険だという理由で長年放置されたのですが、「アパッチ族」といわれた貧しい廃品回収の人々がそれにもかまわず出入し、鉄くずを拾い換金して生活していました。勿論不法な行為であり、警察といたちごっこをしたそうです。

表門跡があり、明治天皇なんとかという石碑が建っており、「砲兵工廠」と刻まれていました。ちょうど、高校生くらいの男女が体操服すがたで門から出てきました。若い女の子、あたしなんかより胸でかいじゃん。乳がんの検査とか言って、揉んじゃいたいなー。でも、みんな、青春してるなーって感じ。

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ところで、門をはいると正面に小さなレンガ造りの建物があります。なんか、土産物屋さんみたい。実はこの建物、明治初期からあるらしく、珍しいのです。しかし、後に衛兵の詰め所や、トイレなどに使われ、本来何に使われたものか、よく分りません。

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それと、レンガ造りで、本来美しい建物だったはずの、旧化学分析場建屋があります。これは、戦後も自衛隊が事務所として使用していました。しかし、自衛隊が出て行ってからは、空家になり、周りは大阪城の駐車場になってしまいました。

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大阪城を出た部分では、周りを高い塀で取り囲まれ、砲兵工廠が秘密の存在だったことが分ります。
多分、夜なんか近寄ると、憲兵に引っ張られるような場所だったんでしょう。

大阪砲兵工廠で現存するのは、今の表門、小さな建物、化学分析場だけみたいです。広い工廠だったのに、終戦直前に燃えてしまい残念です。

ひと通り見て、天満橋に戻り、スターバックスでお茶しました。そして地下鉄で梅田に出て、阪急で淡路に行きます。

<涙の最終回へ続く>