大阪の旧軍遺跡を見に行く(2)

前回に引き続き、大阪に行った話。

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陸軍第四師団司令部の建物は、1931年に大阪城復興資金の余り(といっても半分くらい)を使って建てられたもので、ドイツの古城を模してつくられたということです。正面にもヨーロッパ中世の城の櫓のようなものがついていますし、四隅にもあります。

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さて、9時半を過ぎ、ピースおおさかが開館となりましたので、そちらへ向かいました。ピースおおさかは財団法人大阪国際平和センターといい、1989年に基本財産2億円、大阪府大阪市が1億円ずつ出捐で設立されました。ピースおおさかのHPによれば、
第二次世界大戦において、大阪では50回をこえる空襲により、市街地の主要部が廃墟と化しました。
こうした被害は大阪にとどまりません。世界最初の核の被爆都市・広島、長崎、『本土決戦』の犠牲となった沖縄をはじめとして、数多くの日本国民が尊い生命を失い、傷つき、病に倒れました。
同時に、1945年8月15日に至る15年戦争において、戦場となった中国をはじめアジア・太平洋地域の人々、また植民地下の朝鮮・台湾の人々にも多大の危害を与えたことを、私たちは忘れません。

人類共通の願いである恒久平和は、戦争の惨禍を知る世界中のあらゆる地域の人々が、それぞれの体験を伝え合い、語り続けることによって達成されます。そして、国内外の各都市・各地域で広がりつつある戦争関係資料の収集、戦争体験の継承への取り組みも、次第に高まっています。
当センターも、大阪における戦争被害者にたいする追悼の場であるとともに、平和にむけての新たな地域的な取り組みを意図したものです。」とのこと。

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最初、大阪の空襲や軍施設の紹介だけなんだろうなあと思っていましたが、日本軍の南京大虐殺や南洋の島で見つかった日本軍の遺留品に関する展示もあり、ショックだったのは終戦直後刑務所から釈放された朝鮮人の人たちが骨と皮にやせ細った写真があったこと、「他国の人を愛せない国民は自分の国も愛せない」という言葉を思い出しました。

さて、あたしのおじいさんが大隊長をしていた高射砲部隊について、元海軍の方の言っていた現存する高射砲の砲台について、なにか分かるものがあるか、見てみましたが、特にありませんでした。もちろん空襲に関する展示、さらに、うちの社長が予科練に入るときに勉強していたような「海軍飛行兵」という参考書や戦時下の暮らしに関する資料などはあったのですが。しかたがないので、受付の女性に頼んで、分かる方を教えてもらいました。

事務局にいるということで、そちらへ行くと、「ああ、高射砲ですか。たしかに高射砲の砲台ならありますが、ちょっと離れています。東淀川区西淡路なんです。ピース大阪の『展示のてびき』に少し出てますけど。あなたが行かれるんですよねー、場所が分かりにくいので、西淡路についてから聞いたほうが良いですよ」と言われました。

なんか、ややこしそう。

まあ、いいか。元海軍のおじいさんに聞いていた大阪城の周辺にあった、陸軍砲兵工廠のあとは一部だけ残っているということで、そちらを先に見に行きました。それと狛犬。日本軍が中国の天津から持ち帰り、なんかの展覧会に出したそうですが、日中国交回復後、中国から改めて日本に寄贈され、友好の証とされ、大阪城に移されたということです。中国は太っ腹ですね。

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これから先を書くのが、ちょっと気分がブルーになりますが、この辺で。