柏飛行場の成り立ちとロケット戦闘機秋水

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柏飛行場は東部百五部隊と柏市史などにありますが、この東部百五部隊とは飛行場ができた当初にいた、陸軍飛行第五戦隊のことです。
日中戦争前の頃に、当時の田中村(柏市北部の地域)が軍隊を誘致しようとして、ちょうど陸軍も立川や調布以外に首都圏に飛行場を作りたいと考えていたようで、互いのニーズがマッチして柏の十余二という開墾地に飛行場が出来た訳です。 
ここには、飛行第五戦隊、飛行第一戦隊、飛行第十八戦隊、飛行第七十戦隊などの戦隊が駐屯しました。 太平洋戦争末期には荒蒔義次少佐ら航空審査部の人たちが柏飛行場に隣接した法栄寺を宿舎として、ロケット戦闘機秋水の実験隊が柏飛行場で活動し、ロケット戦闘機秋水が柏飛行場に配備されようとしていました。 しかし、秋水が量産化される前に終戦となりました。 実際には配備されなかった秋水ですが、燃料庫は十余二に実験などに使われる小規模なものが、花野井に本格的なものが建設されました。 
花野井の地下燃料庫が現存しているので、秋水は柏だけのもののようなイメージがありますが、海軍と陸軍が共同開発し、搭乗員の訓練もそれぞれやっており、海軍は実際に横須賀追浜飛行場で秋水のテスト飛行を行っています。空技廠や追浜にも秋水の関連設備があったはずですが、残っていないので、柏がクローズアップされる面もあります。
 
松ヶ崎次郎さんの動画↓
 
この秋水は約3分半で高度1万メートルまで上がることができますが、航続時間はせいぜい10分足らずで、上がってから6分ほどで敵機を襲撃しなければなりません。 1回上がってB29に30ミリ機関砲を撃ち込んでも、一旦降りてまた上がると1万メートルまで達するかどうかで2回目までの襲撃でしとめないことには、3回目襲撃できるかどうか。
そんな短い時間しか飛べないのに、何千機も作ってもどうなのかと思います。 戦争末期で陸海軍とも、こうしたトリッキーな兵器に傾いていたことは、戦局が不利になり、敗戦の気配が漂っていたころのまさに末期状態であったことの象徴と思います。
 
秋水は特攻機ではありませんが、同じころ人間爆弾桜花や人間魚雷回天も作られました。 戦争自体が人の狂気を誘うのか、兵器も非人道的な異常なものになっていったのです。
もとは侵略戦争として中国、東南アジアを攻めることから始まった戦争ですが、やがて日本本土に空襲がはげしく行われるようになり、その空襲を行っていたB29などを撃墜するためのロケット戦闘機秋水。 その燃料庫などのインフラが柏飛行場周辺に作られました。 そのかげにはテスト飛行の事故で犠牲になった犬塚海軍大尉やパイロットの訓練を受けた若い軍人たち、秋水の開発、実験を行ってきた軍や民間の技術者たち、燃料庫などを作った朝鮮人労務者たち、燃料や格納容器を生産した民間会社の人たちがいました。
 
秋水が今の科学技術の進歩に貢献したなどという人もいますが、いわば狂気の兵器であり、多くの犠牲の上に成り立ったものであったのです。