航空百日祭と陸軍航空士官学校

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旧陸軍の軍歌で、エレガントといえるものは、この「航空百日祭」でしょうか。

これは陸軍士官学校から、航空兵科の将校を養成する役割を担う部分を分離し、陸軍航空士官学校が1938年(昭和13年)に設立され、1938年に最初に卒業した人たちは陸軍士官学校の期を引き継いで50期、陸軍航空を担う若い人たちが続々と巣立っていきました。この陸軍航空士官学校は、1938年12月の陸軍航空総監部創設とあわせて、航空兵科教育の複雑化専門化に対応し、航空要員の大幅な養成を目的にしたものでした。

その当時、陸軍航空において、幹部定員は将校約4,000名(うち操縦1,400名)、准士官下士官10,600名(うち操縦2,600名)とし、5年間でその要員を育成することが必要とされていました。でも、1937年(昭和12年)の実数では、将校1,020名(うち操縦350名)、下士官1,960名(うち操縦560名)と全然足りませんでした。

航空士官学校は、その将校を養成する学校で、生徒数は51期は95名、52期127名、53期395名、54期395名、55期636名、56期627名、57期1,145名、58期1,155名、59期1,600名、60期2,880名と増え続けました。

ところで、陸軍には軍の学校を卒業する百日前に、百日祭といって卒業の前祝いのような宴会をする習慣が明治の頃からあり、航空士官学校でも百日祭が行われていました。これは、正式な儀式とか催しものではなく、生徒たちが勝手にやっていたものですが、学校側も黙認していました。その百日祭を歌ったのが、「航空百日祭」で1941年(昭和16年)に作られました。その作詞者梅岡信明と作曲者家弓正矢は、当時の陸軍航空士官学校の生徒でした。

宴会の歌でも、宴会ソングではなく、ちゃんとした軍歌です。歌詞も武蔵野の自然と陸軍航空を担う若々しい気慨を歌いこんでおり、曲もきれいで、何か軍人の作った歌じゃないような感じがします。

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でも、航空百日祭を祝った人の中からも戦死した人たちもたくさん出たでしょう。60期の人たちは、戦局が押し詰まった太平洋戦争の終戦間際に学校生活を送っていたのですが、皆特攻要員になるという覚悟を抱き、終戦直前の1945年(昭和20年)7月に梯団を組んで旧満州に渡りました。結局ソ連の参戦で、日本に戻りましたが。

また、終戦にあたって、航空士官学校の一部の人は、近衛師団の一部の参謀とはかって、軍の倉庫から武器を出すなどして、戦争継続のため反乱をおこしましたが、すぐに鎮圧されたということです。