震天制空隊の悲話

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最近、「歴女」がはやりですが、「軍女」というのは、あたしだけでしょうか。

やばい、やばい、確かに「あの人おかしいんじゃないの」という声が聞こえてきそうな。

でも、森ちゃんさんとかも、戦争遺跡の研究会でチューターになり、たまたま会場で時々ミュージシャンの演奏があるので、アンプやスピーカーがあるのを幸いに、思いっきり音楽を流して、その後時間が足りなくなって後半はとばしまくったとか。ちょっと、変かも。ただ、本当はベンチャーズの音楽(北国の青い空?)も流したかったらしいのですが、さすがに関係ないとおこられそうなので、それはやめたとか。

びっくりします。でも、森ちゃんさんから教えてもらった震天制空隊の写真は、涙なくして見れませんでした。

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鎌ヶ谷市の「戦争の記録と記憶in鎌ケ谷」より)

これは、松戸飛行場にいた陸軍飛行53戦隊の結成した震天制空隊のメンバーで、その隊長は青木哲郎少尉。手に数珠を持っている人が三人、もう一人のサングラスをかけている人は花を持っています。自分たちの死を覚悟して写真にうつっているのでしょう。

この震天制空隊は、首都東京の防空のため、第10飛行師団で隷下の戦隊ごとに4名ずつ出して、戦闘機をB29に体当りさせて落とそうとした特攻隊の一種です。戦闘機は、松戸の場合には双発の屠龍というものが使われましたが、その胴体に、

帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をとどむる

という楠木正行の和歌にちなんで、鏑矢を赤く描いたのです。

そもそも震天制空隊が結成されたのは、当時の日本の戦闘機では、B29のような1万メートル以上の高高度を飛ぶ敵機を容易に迎撃できず、また普通の高射砲もせいぜい9千メートルの高さまでしか打ちあげられず、届かないため、いっそのことB29に対して、老朽化した戦闘機で体当りして落とそうという無茶苦茶な戦法のためで、戦争末期の1944年秋ごろから実際に体当りが実施されました。

軽量化のため防弾板や機銃ときには無線まで外していますので、まったく人命軽視です。飛行機を体当りさせて、脱出するのはとても難しく、またこちらは銃砲類の攻撃手段がないので、逆にB29に接近する前にB29自体の射撃や連れている米軍の戦闘機の射撃のために、返り討ちにあってしまいます。

ただでさえ、戦争末期はパイロット不足でした。熟練者は戦死、その補充で操縦練習生あがりの下士官を大量に戦隊に配属し、学徒なども短期間で教育して一人前とはいえないまでも何とか飛べるようにしました。そういう未熟なパイロットたちは、敵から狙われました。また夜間戦闘では熟練した腕がないとだめで、夜間飛べる人は何度も出撃していきました。その苦労は、大変だったと思います。

それでもみな果敢に戦い、そして無残に死んでいきました。松戸の震天制空隊の、防空戦闘で、青木少尉は最後まで生き残ったのですが、震天制空隊が取りやめにになったときに、激戦を繰り広げていた朝鮮の部隊に配置変えになり、同じ部隊の人たちはずっと青木少尉は朝鮮半島で死んだと思っていたようです。

しかし、青木少尉は生きていました。そして戦後も、戦友とは連絡をとらず、ひっそりと関西で伝統工芸の織物の製造をされていたそうです。