元軍人たちの戦後

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あたしのおじいさんは、広東を攻略した陸軍第百四師団隷下の野砲兵第百四連隊に所属し、広東周辺の中国南部を転戦した陸軍砲兵将校でした。終戦近くになって内地帰還し、大阪で高射砲部隊の大隊長をしていました。

でも、悲しいことに、大阪砲兵工廠は大規模な空襲にあい、大阪城の周辺、JR京橋駅までなくなった人の遺体がいっぱいだったといいます。日本軍の八八式などの高射砲では、せいぜい弾が届くのは、九千メートルで、一万メートル以上の高高度を飛ぶ、B29などの敵航空機には届きませんでした。

米軍は軍の施設も、民家も見境なく爆撃し、非戦闘員の子供まで狙って、機銃を撃ちました。

そして、日本は無条件降伏して、敗戦。おじいさんたちは武装解除され、かつて広東攻略の後に白馬に乗って、凱旋した丹波の田舎に、今度は敗軍の元陸軍少佐として復員帰郷しました。

同じ時、森たけ男さんは関西の海軍の航空隊から、また城たくやさんは、ある海軍工廠から、自分の家に戻ってきました。
軍人でも、とくに、海外から引き揚げてきた人たちは、大変だったでしょう。引揚船で祖国日本を目前にして、病気でなくなった人もいたといいます。

おじいさんは、それから働きましたが、陸軍少佐だった人が、生活のためとはいえ、ちゃんと仕事ができるようになるまで、臨時雇いの事務員や軽い仕事を転々としたのですから、本人も嫌だったと思います。
お父さんはまだ小さかったし、家族の面倒をみないといけないし。

元軍人で、社会に適応できなかった人は、割と大勢いたようです。脳障害のため、戦時中と今自分がいる復員後の世界がごっちゃになり、きみょうな行動をとる元中尉について、井伏鱒二さんが書いた「遥拝隊長」なんて、その極端な例ですが、就職できずにいて、お酒に溺れたりして、結局ドロップアウトしてしまう人も大勢いました。今までの価値観が180度かわり、自暴自棄になったり、世の中を悲観したりした心理的な要素も大きかったと思います。

おじいさんは、もともと理数系に強い人で、アイデアマンでした。そして砲兵科将校として勉強した測量やいろんな計算ができるという特技もありましたので、得意とした測量技術を用いて事務所を設立、自分で経営することになりました。

戦後落ち着いてくると、おじいさんの戦時中の経歴などを知り、利用しようと近づいてきた人もいたようですが、おじいさんは拒絶し、旧陸軍の偕行会にさえ誘われても行きませんでした。一技術者、一経営者として、戦後生まれ変わったのです。

あたしのお父さんは、おじいさんとは余り似ていませんが、「人のいうことはすなおに聞く」、「技術者の良心を大切にする」というおじいさんの考え方を受け継いでいます。でも、ちょっとおっちょこちょいかな(あたしも多分にお父さんの血を継いでいる)。

森たけ男さんは、あたしのおじいさんより十歳くらい若く、戦後大学に進み、社会科学研究会の活動をしていたそうです。ちょうど、共産党が分裂していた時期で、社会科学研究会や全学連には当初共産党の国際派の影響が強かったのですが、のちに徳田球一さんたち所感派の影響力は全学連にもおよび、学生の間にも軋轢が生じました。森さん自身も、戦争中海軍にいたことで「軍国主義的な思想の残滓がみられる」とされたようです。森さんの言葉を借りれば、「とんだお笑い草」なのですが。

たまたま全学連の混乱を見たために、森さんは大学卒業後会社に就職し、長く政治的な関心を封印してきたそうです。ただ、ソ連のアナスタス・ミコヤンが来日して、部分核停条約が押しつけられようとしたときは、「学生の時以来の血が燃えた」そうです。

城さんは、海軍工廠にいた人で、森さんよりも若いのですが、森さんより保守的で、多少軍人の考え方が残っているかも。それ以外は、ちょっとエッチなおじいさんですが。なーんてね。

(森たけ男さんの好きな「兵士の旅路」(セドイ作曲))


(写真は九段会館=旧軍人会館)