わるい子の童話「革命運動は死なず」

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1950年頃、日本は戦争に負け、東京も焼け野原だったのが、ようやく都心にビルも建ち始め、経済も復興しようとしていました。でも、国鉄の列車をひっくり返し、死者もだした事件が世の中を直すことを主張する革命党の人たちのせいにされ、それは後でウソのことにもとづく間違った逮捕であることが分かるのですが、革命党に入っている人を含む、労働組合の活動家たちが逮捕され、牢屋に入れられたり、社会は騒然としていました。中国大陸では蒋介石が率いる南京政府が台湾に追われ、中華人民共和国が革命によって成立し、アメリカは日本を反共産主義の防波堤にすべく、いろんな施策をとり、日本の民主政治は逆コースをたどることになりました。

また、日本の産業界ではストを行ったり、会社の言うとおりにならない労働組合をつぶすために、労働組合の幹部の人たちを含む、多くの働く人をクビにすることを経営者は考え、それを実行に移しました。新聞や電力、重工業など、日本の産業界を代表するような会社から、多くの働く人が追放されたのです。特に、革命党の人たちやその考え方に賛成する人たちを、その人の能力や経験なども関係なしに、会社から追放したことを「レッド・パージ」といいます。

大手重工業会社である帝国重工がつぶそうとした関東工場の労働組合では、組合長の川崎さんなど組合幹部が、革命党の党員でした。その会社の労政部という労働者の管理を行う部署では、誰が革命党員か、各労働者は革命党や労働組合に対してどんな考えをもっているかを詳しく調べ、誰をクビにするかを考えていました。でも、会社が分かっている情報は、工場の部長、課長などの幹部からあがってきたもので、明らかに労働組合の役員をしていたり、職場でビラを配ったり、労働組合の集会でよく発言する人などの情報が主で、一般の労働者の詳しい情報はありませんでした。

そこで、金川という労政部長は、労働組合の役員か、労働組合の事情に詳しい人にワナをかけ、会社の言うことをきかせ、そこから情報を得ることを思いつきました。会社が目をつけたのは、大船という労働組合の若い役員で、話はうまいが、少しホラ吹きで、私生活では賭け事が好きでお金に困っているという噂のある青年でした。偶然にもその青年と田舎が同じで軍隊も同じ部隊という者が労政にいましたので、会社側は、その労政部員を使って、大船青年にお酒を飲ませたり、お金を渡したりして、彼を会社側に取り込みました。そして、お酒を飲むと口が軽くなる大船青年の癖を利用して、いろんな情報を聞き出しました。ついに、その大船青年は会社のスパイになったのです。

そして、その大船という若い組合役員は、会社に労働組合の勢いを見せつけるという名目で、あまり活動に積極的でなかった組合員も動員して、工場の正門前に大勢の組合員たちを集めた宣伝活動や構内でのデモ行進を行わせ、結果として会社側が使った暴力団が組合のデモ隊に突入し、暴力団の暴力に反撃した何名かの組合員たちが武装警官に逮捕されるという事態を招きました。その「事件」の後、その大船青年は組合事務所にも姿を見せなくなりました。

結局、労働組合の川崎組合長たちは、「会社の考え方に合わない」、「会社業務に対して協力的でない」という理由で、会社側から解雇通告を受けました。川崎組合長たちは、その解雇通告を封も切らずに会社につき返しました。すると、今度は会社は、会社の方針に従順な別の労働組合(通称「第二組合」)を作り、その第二の労働組合に、もともとの労働組合の川崎組合長たちの解雇を認めさせるという手に出てきました。さらに、第二の労働組合は、もともとの労働組合の事務所を大勢の人で占領し、ついにもともとの労働組合は締め出されてしまったのです。こうして、その工場では、川崎組合長をはじめとするもともとの労働組合の役員のうち、会社のスパイになっていなくなった大船青年を除いたすべての組合役員がクビにされ、その人たちを含め、全従業員の30%ほどにあたる2千人もの人が会社から追放されました。解雇された人たちは、会社が禁止しているのにも関わらず、工場内に入ったり、解雇撤回を迫ったりしましたが、そのつど武装警官に排除されるなどして駄目でした。川崎さんたちは、さびしい気持ちをおさえながら「民族独立行動隊」の歌を歌って、解雇取り消しの宣伝をし、また夜は組合事務所から追い出されたために、自宅で法律や革命理論の勉強会などをしていました。

川崎さんは地域の革命党の支部で再起をはかり、組合幹部のある人は労働組合の上部団体の活動を行ったりしましたが、生活のために故郷に帰って農業の手伝いをする人、都会に残って日雇いの仕事をする人なども出て、やがて元の労働組合のメンバーはバラバラになっていきました。

これで、工場から革命党のメンバーは一人もいなくなったと会社は判断しました。

でも、その判断は間違っていました。革命党の党員候補ですが、まだ党員として承認されていない鎌倉さんという人が残っていました。そして、病気療養中で活動から離れていたために、やはり解雇通告を受けなかった金沢というベテラン労働者をその自宅に訪ね、鎌倉さんは今後のことを相談しました。実は金沢さんは、党員でした。鎌倉さんは、金沢さんが党員ではないかと思っていたのですが、相談するまで確証はありませんでした。金沢さんは、自分が証人になるので、革命党の県委員会に鎌倉さんの候補期間が満了したら党員認定をさせることを約束しました。そして金沢さんの病気は快方に向かい、鎌倉さんの党員候補期間が満了する頃には全快したのです。

こうして、その工場には、党員が二人となりました。今度は、「第二組合」のやり方に不満で、まじめなベテラン労働者の横須賀さんという人の存在に、鎌倉さんが気付き、何度か話をするうちに、以前横須賀さんが革命党の勧誘をうけ、その誘いをした人が追放でいなくなってしまったため、その話が立ち消えになっていたことを知りました。そこで、金沢さんが県委員や会社を追い出された川崎さんたちを連れてきて一緒に説得するなどして、横須賀さんを革命党に入れることに成功したのです。その党は、党の規則で3人いれば支部を作ることができます。

革命党の帝国重工関東工場支部は、晴れて再建されました。でも、3人だけでは、会社に立ち向かうことはできません。3人は地下水道を進むように、会社には隠れてひたすら党員を増やしました。それから10年くらいたったころ、党員数が十分な数となったと判断した革命党帝国重工関東工場支部は、ビラまき宣伝などの公然活動を再開しました。もう、その頃には、「レッド・パージ」などは行うことができない、社会状況になっていたのです。

支部再建から25年後、革命党の帝国重工関東工場支部は、大きな支部になっていました。そうはいっても、労働組合は、会社側が作った「第二組合」のままです。もう金沢さんや横須賀さんは定年でとっくに退職しました。鎌倉さんは、公然と帝国重工関東支部の旗を掲げられるようになってからも、長くその支部を育て続けました。その功績は、革命党中央委員会の労働運動担当セクションからも高く評価されました。

帝国重工を定年まで勤めて退職した今も、鎌倉さんは、金沢さんたちと支部を再建したときのことを思い出します。地域支部で活動していた川崎さんはやがて革命党の中央委員になりましたが、その他の元の労働組合の仲間で消息が分からなくなった人が大勢いるのを思うと、鎌倉さんは、そっとため息をつくのです。

(参考:「民族独立行動隊の歌」)


(参考2:「全京都統一メーデーであいさつする共産党穀田恵二衆院議員)


本文中の固有名詞はすべて架空のものです。同様の事件や団体などがあったかもしれませんが、全般的に創作です。