国府台砲兵の碑

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前に、「サクラ咲く Oh! 真間、真間~」という記事のなかで、真間山弘法寺の境内に「国府台砲兵之碑」というのがあると書きましたが、その写真を示していませんでした。

前にいったときは、ちょうど碑の前にある伏姫桜という枝垂桜が満開に咲いていました。そして、「国府台砲兵之碑」のわきには、サイパン島の最後の斬り込みでの生き残り、平櫛孝参謀中佐が作詞した「砲兵の歌」の歌詞の歌の碑がありました。

そして、碑文には以下のようにあったのです。

国府台は明治以来皇軍練武の地にして就中軍の骨幹たる砲兵相継ぎ営を列ね戦力を競い数数戦場を往来して国府台砲兵の歴史と伝統を輝したる地なり 
然るに大東亜戦の終末と共に当時最新鋭を誇りたる機械化装備の砲兵も台上より其雄姿を消滅するに至り年と共に営址旧蹟悉く変貌忘却せられ今や追憶の縁さえ失われんとするに至る
我等生存有志相図りて茲に地を相し碑に刻し以て先士戦友の功業を讃え英霊を慰め国府台砲兵の名誉を永遠に伝えんとするものなり
 昭和四十六年四月
 野戦重砲兵第一聯隊
 野戦重砲兵第七聯隊
 野戦重砲兵第十七聯隊
 野戦重砲兵第十八聯隊 出身生存者一同
    元野戦重砲兵聯隊長 本田森造撰書」

「軍の骨幹」って、「砲兵の歌」の「襟には栄ゆる山吹色に 軍の骨幹誇りも高き われらは砲兵皇国の護り」という歌詞にも出てきますが、碑文は後から書いたので、それは「砲兵の歌」からとったのでしょう。国府台には高射砲連隊もありましたが、日中戦争さなかの1938年(昭和13年)11月に柏に移転しました。ただ、太平洋戦争中は国府台のお城の跡などに高射砲陣地ができたそうです。

なお、石碑の写真が光っていますが、これはフラッシュが反射したので、別になんでもないですよ。そういいながら、周りがお墓だけにちょっと怖くなりました。