武士のような商人のような人たち

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歴史上の人々の行動は、現代人からは考えられないことがいろいろあります。

歴史の教科書では、江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、武士が他の職業を兼ねることはなかったと思いますが、それ以前については兵農分離がされたのは豊臣秀吉の刀狩や検地からで、戦国時代以前は武士兼農民という人たちが大勢いた、だから農繁期には合戦をしなかったといいます。それは前から知っていたのですが、実は武士が商人化したというか、商人が武士になったというか、武士と商人を兼ねたような人たちがいたことは、知りませんでしたし、一般にもあまり知られていないようです。

古くは楠正成も、そういう人だったといいます。楠正成は橘氏の出身だという説がありますが、河内や近畿地方にもともといたのではなく、北条得宗家被官の一族で、得宗領の河内へ移ってきたとする説や武蔵国の出身であるとする説もあります。そして河内に土着し、「悪党」として押領など行う一方、付近一帯の流通ルートで活動していた商人的な武士だったようです。

現在の千葉でも、そういう人たちがいました。千葉氏の居城は千葉城だったのですが、室町時代に馬加(まくわり)康胤という一族の長老みたいな人が反乱を起こし、千葉氏重臣の原胤房とともに千葉宗家をせめて滅ぼしてしまい、馬加(まくわり)康胤の子供かなにかの関係の岩橋輔胤が宗家を継いで、居城も本佐倉(今の酒々井町)に移しました。本佐倉には城と「根古谷」という家臣団の集落、そして職人、商人などの住む町場が同心円状に作られていったのですが、延徳2年(1490)には、城下に市と町がたてられたといいます。城下北方にあった浜宿東端にあたる字「松合」という場所の微高地付近に、鎌倉期の陶器や宋銭などが出土するなど、考古学的にもそれは立証されました。注目されるのは、篠田大隅守という千葉氏の家臣は、商人的な側面ももっていたことで、江戸期に本佐倉の城下の一部が酒々井宿となったとき、篠田大隈守が町役人の筆頭となったことに見られるように、千葉氏のごく身近にも御用商人的な人物がいたのです。

はっきり断定できない例ではありますが、千葉県白井市にある小森城は、珍しくほぼ完全に残っている城跡ですが、かつては手賀沼に面し、船着場もあった城で、その城主は手賀沼印旛沼を往来する、やはり商人的な武士だった可能性があるとのことです。

武士兼農民は分かりますが、武士兼商人がいたとは、日本史は奥が深い。奥が深いなー、鍾乳洞なんちゃって。

参考サイト:「薔薇の古城」 白井の小森城は商人的武士の城か
       http://mori-chan.cocolog-nifty.com/dai2/2006/04/post_3c98.html

写真は手賀沼の夕日(ニャンコの部屋素材館より)