四街道の野戦砲兵学校跡の砲弾標本

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四街道の野戦砲兵学校跡には、野戦砲兵学校の記念碑とともに、大砲の弾のサンプルがありました。
野砲(山砲)、十糎加農砲、十五糎榴弾砲の大砲の弾が、石碑のそばにあったのです。

あたしのおじいさんが野戦で使ったのは、この野砲というやつかなー。でも野砲と山砲の違いは、読んで字のごとく、山砲は山地で使用され、野砲は平地で使われた大砲というくらいで、本質的な違いはありません。ただし、山砲は分解して兵が運ぶことができるよう一般的に各部品が軽く作られており、砲身は短く、強度が少し弱くなります。野砲が重く、牽引するものが必要であったのに対し、山砲は軽いという特徴があったため、山砲といいながら平地でも活躍し、旧式の四一式山砲は、よく歩兵砲隊の砲としても陣地戦、歩兵の近接援護のためにも用いられました。
また、日露戦争の頃は騎砲隊というのもあって、二頭の馬に車輪と砲筒、もう一頭の馬に弾薬を背負わせ、馬三頭に三名の兵士で一個隊としたそうです。

野砲(山砲)砲弾
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その弾をみると、片手で持ち上がりそうなくらい。随分、小さいように思いますが、長さ20センチちょっとでしょうか。
中国南部に日本軍が捨てた山砲が戦後ベトナムに運ばれ、ベトナム戦争ベトナム民主共和国軍によって用いられ、ディエンビエンフーの戦いでのベトナム人民の勝利に貢献したそうです。

加農砲カノン砲(カノンはフランス語のCANON)を日本語で表記したものであり、砲弾に緩焼性の比較的高い多量の火薬を用い、射角45度以下の低い弾道で遠距離射撃ができることが特徴点です。平射用火砲で、砲身が長く斜角が狭いので、弾道曲線は低く初速が大きい、ゆえに遠くへ飛んでも貫徹力があるのです。「十糎加農砲」とかくと、古めかしいですが、口径が10cmというカノン砲で、大体10Km以上の射程距離があります。
野戦砲兵学校跡の砲弾サンプルは、一部壊れていますが、誰かがいたずらしたんでしょうか。こんなことされては、困りますね。

十糎加農砲砲弾
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榴弾砲は内部に火薬が充填された砲弾、榴弾を撃つ砲のこと。榴弾砲は一般的に砲身長30口径以上で、射撃角度は45度以下と45度以上のどちらにも取ることが出来、歩兵や戦車など地上目標に対して、直接射撃だけでなく間接射撃を行うことができるものです。「十五糎榴弾砲」は口径が15cmの榴弾砲で、6kmくらいの射程距離になります。もはや、これは重砲ですよね。四街道の野戦砲兵学校や野戦重砲兵連隊が演習するときは、主力兵器である、この砲も使ったんでしょう。
四街道の演習時には、「ルボン山」=「大土手山」に赤旗が掲げられ、花火があがって合図したそうですが、交通の要所に兵隊さんが立ち、通行止めをしたそうです。だから付近の住民は子供を含めて、外を歩くときは大きく迂回せざるをえませんでしたので、演習時には学校を休む子や、市街地に居候をして学校に通う子などがいたそうです。

榴弾砲は自走式のものが多いですが、牽引する場合は車で引いたり、分解して馬でも運んだようです。急に運ぶようになった場合は、相当に大変そう。

十五糎榴弾砲砲弾
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四街道では大正時代から、射撃演習のあとは、近所の住民(子供を含む)によって廃弾拾いが行われました。それは大きな収入源として町ぐるみで行われ、下志津新田の各家はその鑑札を持っていたといいます。しかし、実弾を薬莢がついたまま学校に持ってきたり、知らずに触って怪我をした子が続出しました。大人でも砲弾を解体するときに、怪我をする人は大勢いたらしく、死んだ人もいたようです。四街道は砲兵と共存した町ではありましたが、そういう一面もあったのです。

(一番上の写真は四一式山砲)