四街道の戦争遺跡2

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♪襟には栄ゆる 山吹色に

 軍の骨幹 誇りも高き

 我等は砲兵 皇国の護り

おじいさんが、たまに歌っていた「砲兵の歌」。作詞者はサイパン島の最後の斬り込みでの生き残り、平櫛孝参謀中佐です。

あたしのおじいさんは野砲兵出身とはいえ、学校の先生みたいな人でした。理数系に強く、多分平和な時代だったら、学校の理科の先生か何かになっていたんでしょう。実際、将校でも砲兵の将校になる人の条件の一つが数字に強い、機械の仕組みを理解するのが得意、といったことですので、おじいさんはぴったりだったのです。砲兵でなければ工兵か技術将校になっていたかもしれません。

そんなおじいさんも、1938年(昭和13年)の広東攻略戦に加わり、砲兵将校としてバイヤス湾に敵前上陸したのでした。戦争とはいえ、中国を侵略する先兵となり、もしかして戦死したかもしれない代償が「広州陥落」の掛軸と勲章だけだったわけです。

その65年前、まだ江戸時代から明治になったばかりの1873年明治6年)、明治新政府がフランス陸軍から指導者として招いたのが、ジョルジュ・ルボン砲兵大尉。旧幕時代、佐倉藩が火業所として下志津原を使い、西洋砲術の演習をしていたのですが、その砲撃演習の目標にされていた小山をルボン大尉が改造したのがルボン山です。

野戦砲兵学校が四街道に出来る前、陸軍砲兵射的学校が下志津原の北方に作られ、ルボン山はそこからの砲撃の射垜(射的築堤)でした。ところが、1896年(明治29年)に新たに陸軍野戦砲兵射撃学校条例が公布され、翌年には陸軍砲兵射的学校が陸軍野戦砲兵射撃学校と改称され、今の四街道市役所の場所に移ってきました。そうすると、今まで大砲を撃っていた下志津原の北方が、逆に砲弾の着弾点となり、その辺りにあった学校の周りの料理屋さんなど軍人相手の店も移り、今度はルボン山が射垜としての役割を終え、射撃演習の観測所兼爆薬庫の土手代わりに使われました。

ルボン山も後に大土手山と呼ばれるようになりましたが、すぐ近くに今は文化センターになっている爆薬庫があって周囲が土手に囲まれたので、そのなかの大きな土手という意味があったと思います。
でも、明治のはじめにつけられたルボン山というほうが、なんか良いなあ。四街道の人たちも、明治生まれの人たちは、これを「ルボン山」と呼んでいましたが、昭和生まれの人たちはたいてい「大土手山」と呼ぶそうです。
案内板には「大土手山 神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれていた 
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた『砲兵射垜の跡』の碑があり、碑裏には次のように刻まれている。『この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治十六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲術大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった 
明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射垜はルボン台または大土手山と呼ばれた・・・」とありました。

実際、ルボン山を下から見たのが写真です。階段は50段以上あるでしょうか、結構高い。一緒に行った森さんは、手すりがないと危ないとのことで、あたしが一人でのぼりました。ビルの3階か4階くらいの高さがあります。昔は周囲に高い建物もなく、目立ったでしょうね。
でも、こういうときに限って、なぜかスカートで来てしまうあたし。まあ、あたしのパンチラ&脚線美?くらい森さんに見られても良いですけど。まだ生足では寒いので、パンストもはいてたし。

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パンチラもまた一興とばかりに、一気にのぼり、頂上に立つと、あれれ、案内板にある神社ってどこ?なんか、普通の公園みたいなんですけど。昔は奉安殿みたいに、神社が祀ってあったということなんでしょう。案内板にも、そう書いてほしいなあ。