今はなき東葛飾郡

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「しょうなん」というと、普通湘南を思い浮かべる人が多いと思いますが、千葉県は東葛地方で「しょうなん」といえば旧・沼南町。

この沼南町は、「東葛飾郡沼南町」でした。浦安が市になる前は、やはり「東葛飾郡浦安町」だったそうですが、「東葛飾郡」と名前がついていたのは、旧・沼南町が最後だったのです。

旧沼南町が柏市に吸収されたのは、2005年3月28日。その日を境に「東葛飾郡」という地名はなくなりました。でも、東葛飾を短く、東葛(とうかつ)と呼んで、千葉県北西部をさすのは今も変わっていません。じゃあ、その東ではなく、真ん中の葛飾というのはどこなのか、寅さんの生まれも育ちも葛飾柴又の葛飾なのか、といえば、大体その通りのようです。葛飾とは、東京・葛飾区から千葉県市川市松戸市流山市、埼玉県三郷市などを含む江戸川流域の一帯をさしていました。

Wikipediaには、以下のように書かれていました。

「代表的なのが太日川(江戸川)を境界として、東側を『葛東郡』(略して葛東)、西側を『葛西郡』(略して葛西)と呼ぶ考え方である。この葛東郡は現在の旧相馬郡地域を除いた東葛飾郡とほぼ合致している。鎌倉時代の文永年間に仙覚によって書かれた万葉集の注釈に葛飾郡を太日川を境に東西に分けると書かれ、永仁年間の香取神宮の造営記録にも、かつて(建長年間に)守護の千葉頼胤が葛東から人夫を調達した事が記録されている。」
(ここまで引用)

つまり、江戸川を中心として葛飾郡というのが東西にひろがり、西が葛西、東が葛東、つまり今の東葛になるようです。

万葉集に、

にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも その愛しきを 外に立てめやも

というのがありますが、これは現在の市川にいたという伝説の美女、真間の手児奈について詠んだ歌だそうです。最初の「にほ鳥の」は葛飾にかかる言葉で意味はありません。葛飾の早稲米を神様に供えるおめでたい夜は 身も心も清く保たなければならないのに、 愛しい恋人を家の外に立たせておけるだろうか(多分恋人が来たら家の中に入れてしまうでしょう)、というような意味です。
この葛飾とは市川あたりのことを言っているのは明らかと思います。

ちょっと疑問なのは、葛西という駅が江戸川の西にあり、それはいいのですが、その隣に西葛西があるのはこれいかに。葛飾の西の西?

あと面白いのは1954年9月1日に東葛飾郡の小金町・柏町・土村・田中村が合併し、東葛市になったのですが、水戸街道の宿場であった小金町が昔から松戸との関係が深く、柏との合併に反対の人がたくさんいて、東葛市から分離して松戸とくっつき、のこった三町村でわずか2ヶ月ほどの後に柏市になったというもの。東葛市というネーミングもどうかと思いますが、まるでコソボ紛争が千葉で起きたみたい。

なお、あたしは子供のころ、東葛飾高校、地元では東葛高校と呼んでますが、この高校のことを「トンカツ高校」だと思っていました。やだな、「トンカツ高校」なんて絶対に行きたくないと思っていましたが、結局東葛高校には行かず、別の高校の理数系に行ったのでした。でも、ずっと東京に住んでいたら、都立ナントカ高校に行ったかも。そうすりゃ大学に通うのにもラッシュに合わずにすんだかな。

(写真は旧水戸街道、小金宿の玉屋)