砲兵の本領

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あたしのおじいさんが、野砲兵の陸軍少佐で、大阪の高射砲部隊の大隊長だったことは、前にも言ったとおりです。

野砲兵とは、歩兵とどう違うかといえば、まず機械について精通していなければならないということ、それから力が強く、いざとなったら砲を分解してかつぐこともできなければなりません。また、指揮をとる人間には、相手までの距離、風向き、風の強さ、火薬の量まで瞬間的に計算して砲弾を撃ち込むことを考えると、高い計算能力も必要でしょう(ちなみに、あたしのおじいさん、お父さん、あたしと三代続けて理数系です)。だから、野砲兵はプライドが高かったようです。また野砲兵は、戦時中まで日本の人口の殆どを占めていた農民出身者も、もちろん多かったのですが、機械を扱っていた工業従事者がなることが多かったようです。

「歩兵の本領」という歌で「万朶の桜か 襟の色 花は 吉野 に嵐吹く」と歌われ、歩兵は赤い襟でしたが、砲兵は山吹色。黄色といったほうが分りやすいかな。なお、替え歌はあったと思いますが、残念ながら「砲兵の本領」という正式な軍歌はないようです。
砲兵の軍歌では、そのまんまですが「砲兵の歌」というのがあります。

「砲兵の歌」では、

「襟には栄ゆる 山吹色に
 軍の骨幹 誇りも高き
 我等は砲兵 皇国(みくに)の護り

 疾風電撃天地を揺りて
 赫々戦勝 基を拓く
 我等は砲兵 皇国の護り

 興安嶺下 暗雲低し
 払えよ辺境 堅塁砕き
 我等は砲兵 皇国の護り

 太平洋上 風浪高し
 鎮めよ海上 艨艟(もうどう)摧(くだ)き
 我等は砲兵 皇国の護り

 大和魂 弾丸にこめて
 撃てよ世界の 夜明けの空に
 我等は砲兵 皇国の護り」

とうたわれています。 作詞者は平櫛孝さん(経歴は以下を参照してください)という陸士出身の将校で、戦争末期には第四十三師団参謀で陸軍中佐。なんと、この人はサイパン島の生き残りが地獄谷に潜んで、最後の突撃をする前に、南雲海軍中将、斎藤陸軍中将と井桁陸軍少将が自決することを望んで三人とも切腹したのですが、それに立ち会っています。
また、平櫛孝さん自身は最後の「バンザイ突撃」のときに負傷して意識を失い、米軍の捕虜になって戦後も生き残りました。「サイパン肉弾戦 玉砕戦から生還した参謀の証言 」(光人社)という本も書いていますが、「大本営報道部 言論統制と戦意昂揚の実際」(光人社)という本も書いていて、デマ宣伝をした「大本営」の実態を痛切に批判しています。

平櫛孝:
1908年、広島市に生まれる。広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校陸軍大学校卒。陸軍野戦砲兵学校、陸軍砲工(科学)学校教官、陸軍省軍務局付、陸軍省大本営)報道部員、留守第三師団参謀、第四十三師団参謀兼第三十一軍参謀兼中部太平洋艦隊参謀を経てサイパン戦に参加。陸軍中佐。1980年2月、歿

この「砲兵の歌」、砲兵出身者は別でしょうが、一般にあまり知られていない軍歌です。しかし、作詞者は数奇な運命をたどったのです。

なお、旧ソ連の砲兵の活躍をうつした映像がYoutubeにありました。本当の戦闘シーンですので、映画とか、バーチャルの映像ではありません。これを見て、思わず泣いてしまいました。たぶん、おじいさんの若いときも、これと同じような戦いをしたんだと思ったからです。




一瞬ですが、スターリンもうつっています。また、最後にドイツ兵が降服し、ロシア兵と一緒に整列します。そのとき、ヒットラーの名前の入った旗が伏せられます。ドイツ・ナチズムの敗北の象徴として。
「正義は勝つ」ってか。

☆絵葉書は近衛野砲兵連隊の習志野原での演習風景
(「千葉県の戦争遺跡」http://www.shimousa.net/ 森たけ男さんよりお借りしました)