B29に体当りした屠龍

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悲しいお話ですが、太平洋戦争末期に、二式複座戦闘機、屠龍に乗った若い陸軍軍曹と兵長が米軍のB29に体当りを行い、機体もろともお亡くなりなったことがあったそうです。


 昭和十九年八月二十日午後五時 真夏の太陽が西に傾きかけた頃であった 突如空襲警報が発令 我が飛行第四戦隊は小月飛行場発進 北九州上空に迎撃態勢を完了した間もなく西の彼方に米空軍空の要塞といわれたB29大型爆撃機80余機が地平線上に現われ 数個梯団となって北九州を目標に来襲してきた いよいよ我が戦隊も迎撃隊形に移行し戦闘の火蓋をきった 操縦は少年飛行兵第六期野辺重夫軍曹 戦技第十三期高木傳蔵兵長の野辺機は 敵の第二梯団長機に対し第一撃を指向 三十七粍砲の第一弾を発射したが撃墜には至らず このままならば敵機は北九州に爆弾投下は必至と察知し これまでと決意軍人精神を胸に秘め「野辺今から体当り」の一語を残し 敵機のやや斜め前方より第二梯団長機を目がけまっしぐらに突進壮烈果敢な体当りを敢行 一瞬彼我両機は一塊となって空中に浮かび 更にその爆破片また第二番機に激突これまた瞬時にして空中分解し 一機を以って敵機二機を葬り日本戦史を飾る(略)


(福岡県北九州市八幡西区にある慰霊碑)

軍国調に書いてありますし、多少の脚色もあるかと思いますが、若い隊員がこのようなかたちで亡くなるとは、罪なことです。

その屠龍は陸軍機で川崎が長年開発し、キ45の改良機として、キ45改となったものをテストして正式に採用されたもの。キ45改の試作一号機は1941年(昭和16年)9月に完成、各種飛行テストが続けられ、1942年(昭和17年)年2月、二式複座戦闘機として制式採用されました。複座でも、後ろの席はほんの少し窓から外が見えるかな、という程度で、窮屈だったそうです。

千葉県では、松戸や柏といった飛行場にも配備されましたが、特に松戸では後ろに斜銃を付け、対爆戦にそなえましたが、裏ではこんな話もあったのです。