市川国府台をブラブラとミニ戦跡めぐり

東京から江戸川を越えると、市川という町になります。ここは陸軍野砲兵旅団、後に野戦重砲兵第一連隊、野戦重砲兵第一連隊などがおかれた軍隊の町でした。

市川は江戸川が市の西境を流れ、川を越えると東京都江戸川区。昔は市川も、江戸川区葛飾ということで、同じ地域だったようです。そして、市川には下総国国府がおかれました。

だから、市川は下総の中心で、国府だけでなく、国分寺国分尼寺も建てられたのです。それは、そのまま地名になっていて、国府のあった台地が国府台と呼ばれ、また国府神社もあります。国分寺のあった地域は国分(こくぶん)といいます。

国府台は松戸街道をのぼっていくと殺風景ですが、江戸川沿いに歩くか、同じ坂でも「法皇坂」とか「将軍坂」という松戸街道から江戸川よりに分岐する坂をのぼっていくほうが、景色がいいと思います。「法皇坂」というのは、今は学校で行き止まりになりますが、昔は道がまっすぐのびて、総寧寺まで続いていたそうです。なんで、「法皇坂」というのはよく分かりません。森たけ男さんの「千葉県の戦争遺跡」では、この坂を「旅団坂」といっていますが、どちらかというと松戸街道の切通しの坂を「旅団坂」というようです。ですが、森さんと同じようにいう人もいますので、どちらが正解というわけでもないのでしょう。

ずっと歩くと、里見公園にでます。この公園の下はやはり江戸川ですが、江戸川までおりる途中に羅漢の井というのがあります。

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この井戸には、看板があり、飲まないでくださいとありますので、水を汲んで飲んで、大腸菌とか問題があったかもしれません。昔は飲み水として使われたんだろうと思います。
こういう井戸は、その近くに陸軍の掘った大井戸として、もう一箇所あったようですが、薮ばかりでよく分かりません。

また里見公園のほうにあがっていくと、右手に東京医科歯科大学のキャンパスがあります。その右手にレンガの破片がありますが、これは野戦重砲兵連隊の裏門跡らしく、その道も「裏門通り」と呼ばれていました。また里見公園にも軍隊は駐屯し、教導団病院が置かれたりしました。

高射砲部隊は、高射砲第二連隊が国府台に一時いましたが、太平洋戦争中には独立高射砲第三大隊が中国分に駐屯し、そこの出身者で飯島さんという人が戦後入植しパン作りをはじめ、誕生したのが山崎パンということです。

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前出の裏門通りがバス道にぶつかる辺りが国府台病院で、これは教導団病院を大半移して陸軍病院としたところ。何も残っていないみたいですが、古い建物もあり、ひょっとして旧軍時代のものかなと思います。でも、何も本とかに出てこないので、違うでしょうね。今までで、全然旧陸軍の建物が出てこないのですが、実は建物も残っています。それはちょっと分かりにくい場所にあり、写真も撮ることができません。

森たけ男さんのHPをみてもきちんと出てきませんが、工兵隊の建物があります。それが旧軍時代の建物で国府台で唯一現存するもののようです。

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結局、ミニ戦跡めぐりをしてしまいました。軍人の血をひく女のサガでしょうか。・・・なんてね。