鐘ヶ淵と船橋の豊島氏

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千葉県市川市国府台は、戦国時代に国府台合戦があった場所。明治からは、陸軍の教導団や野砲兵連隊などが移駐され、軍隊の町になりました。

その国府台では、小田原の北条氏と里見氏が合戦をしたのですが、そのとき里見勢は今の里見公園の場所にあった国府台城に籠もって戦ったといいます。
その合戦は、第一次、第二次とありますが、第一次は北条氏と里見氏というよりは足利義明さんの戦いで、足利義明さんは討死、里見氏はすぐに退却してしまいます。
第二次になって、里見が前面に出て、北条氏と戦いました。その際、いろいろな逸話や伝説があるのですが、鐘ヶ淵という話は、ちょっと不思議です。

(国府台羅漢の井の上からみた江戸川)
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「江戸川ライン歴史散歩」という本に、「鐘ヶ淵と鐘懸松」として、その話が以下のように書かれています。

国府台城跡(里見公園)の西下、江戸川切り岸の深淵を「鐘が淵」と称した。『江戸名所図会』によると、永禄の国府台合戦のときに「里見氏の陣鐘この淵に沈没す。故に号とすと」、あるいは「この鐘が淵といふは、豊島刑部左衛門秀鏡(ひであきら)が陣鐘の水中に落ち入りゆゑなりと」いう。また、この鐘は里見氏が船橋慈雲寺の梵鐘を奪ってきたものと伝えている。里見公園の西側、崖ふちにこの鐘をつるしたと伝える「鐘懸松」という老松があったが、だいぶ前に台風で根元から崩落してしまい、今はない。


実は、この豊島刑部左衛門秀鏡という人ですが、この話しか登場してきません。豊島刑部少輔明重という人がいますが、その人は江戸時代はじめの1628年(寛永5年)に江戸城で刃傷事件を起こした人。

そもそも、この豊島という名字は、今の東京都北区におこった豪族の名字です。その支流の葛西氏とともに、武蔵国の東側を支配した有力な豪族。元の鎌倉公方である、古河公方を支持する千葉氏分家の馬加康胤たちに、上杉氏支持の千葉氏宗家が滅ぼされ、その遺児たちが市川城(国府台城とは別の城に籠もって戦った市川合戦での戦死者のなかに、「豊嶋太郎妙豊」という名前が見えます。だから、千葉氏とも関係あったようです。ちなみに、武蔵に逃げた千葉宗家の子孫は武蔵千葉氏となりました。また、豊島区の豊島は、その豊島さんの名字によります。

国府台城跡:今は里見公園だよーん)
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なぜか、その鐘ヶ淵の伝説にでてくる船橋の慈雲寺というのは、里見氏の祈願寺で、船橋に里見氏の拠点があったことが伝説からもわかります。その船橋に豊島氏は城を構えていました。それは夏見城。偶然にも、その城主らしい人の名前が、寄進した仏像の胎内銘から分かりました。天文5年(1536)造立の長福寺木造聖観世音菩薩の胎内銘に「夏見豊嶋勘解由左衛門尉平朝臣胤定」とあり、夏見城主であったのは豊嶋胤定という武士であったらしいことが分ったのです。しかも、その勘解由左衛門尉という官途名は、拠点とした石神井城を太田道灌によって落とされた武蔵の豊嶋勘解由左衛門尉泰経と同じです。15世紀後期に石神井にいた豊島氏が16世紀になって船橋にきたのでしょうか。

あるいは、里見氏というより、その船橋にいた豊島さんが、国府台に慈雲寺の鐘をもっていったかもしれません。

また、茨城県の府川にいた布川豊島氏というのもいます。これは千葉宗家を滅ぼした側の原氏に近いです。船橋の豊島氏がその布川豊島氏とすれば、原氏が連れてきたのでしょう。そして、もし、夏見城主の豊島氏が、原氏と仲のいい布川豊島氏なら、里見にはつかないだろうし。

あ~あ、複雑。。。

その夏見の豊島さんのご子孫は、市川で生きているらしいのです。慶長11年(1606)の中山法華経寺諸塔中の檀那のうち、この夏見豊嶋勘解由左衛門尉胤定の子孫と思われる夏見勘解由左衛門尉なる鬼越(現市川市鬼越)在住の檀那の名が、中山法華経寺所蔵の「護代帳」に見られるそうです。

(いちばん上の写真は市川城跡と推定される真間山弘法寺の伏姫桜)


参考図書:「江戸川ライン歴史散歩」 千野原靖方著 (崙書房 1991)