日露戦争:旅順要塞の攻防

日露戦争はずっと昔の話とはいえ、現代に通じるものがあります。

なぜ、乃木希典さんは、あの旅順要塞を攻撃するのに、歩兵の突撃を繰り返したのか。それがずっと疑問で、いまも疑問です。

♪旅順開城 約なりて 
 敵の将軍 ステッセル 
 乃木大将と 会見の
 処は何処 水師営

という「水師営の会見」という昔の唱歌でも、乃木大将は英雄でしたが、実際には兵隊をたくさん死なせてしまったのです。



旅順要塞はロシアが誇る築城技術の持ち主、ロマン・コンドラチェンコ少将が指揮して固めたものです。ほんと、よく固めました。カチン、カチンに。。。 その固めるじゃない、突込みが遅い!(いつの間にか、虹組キララになってる)

コンドラチェンコさんが来る前は、要塞を作るお金を前任者が私的に流用したりして、要塞の主な部分は未完成でしたが、それをコンドラチェンコさんが補い、日本軍を迎え撃ったことになります。なにしろ、コンドラチェンコさんの発案で、艦載砲を各要塞に設置して砲撃するとともに、日本軍歩兵の銃剣突撃に対しては堡塁から機関銃で迎え撃ち、手榴弾・地雷・高圧電流を流した有刺鉄線などを有効に使って、これを防ぎました。兵力に劣るロシア軍は、陸軍でも海軍用の機雷を敵兵に向けて投げ落としたり、大砲に魚雷を装填して砲撃するという、一見常識はずれのことまでして、日本軍の攻撃に対処したのですが、攻める日本軍のほうが正攻法一本槍で、芸が無さ過ぎました。

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日本軍は、歩兵の突撃ばかりしており、1904年8月19日の最初の戦いで戦死者5,000人、負傷者10,000人の大損害を蒙りました。途中、10月には有坂成章少佐の発案で、日本の港の守りに配備されていた二八糎榴弾砲というのを持ち出して、それで要塞に向けて砲撃しました。この二八糎榴弾砲というのは、大変おおきなお化けみたいな大砲です。既に旧式になっていましたが、要塞にむけてぶっ放す(まあ、お下品な)には問題なく、それで旅順港や旅順艦隊にも砲撃し、旅順艦隊には一定の損害を与えることに成功しましたが、旅順要塞はなかなか落ちません。

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三度目の11月28日には、日本軍は白襷隊を編成し、夜間斬り込みをかけました。この戦法は太平洋戦争でもよくとられましたが、その太平洋戦争でも米軍の十字砲火にはむなしく兵を消耗するだけで、最後は玉砕になっていったのです。

日露戦争の白襷の突撃も、サーチライトにあてられ、白襷が反射して目立ち、かえって銃撃にさらされることになりました。そして、その失敗後に乗り込んできた児玉源太郎参謀長が、要塞正面の攻撃でなく、まず背後の二百三高地を落とし、そこを占拠してロシア軍を山の上から牽制することを提案、実行されました。二百三高地を落としたことで、日本軍は有利にことを運ぶようになったのです。また、東鶏冠山北堡塁でたまたま兵を激励するために来ていたコンドラチェンコさんが12月15日、日本軍の砲撃のためになくなると、ロシア軍の士気が一気におち、その約半月後の1905年1月1日にはステッセルが旅順開城・降伏を申し出たのでした。

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実は、この旅順要塞をモデルにして日本軍が演習したという「永久堡塁」という戦争遺跡が、船橋市習志野台の保育園などの地下に眠っているそうです。1962年(昭和37年)までそのまま残っていたそうですが、住宅開発のため住宅公団が埋めたのだそうです。なにしろ、分厚いコンクリートでできたもので、しかも大きいために、壊すにはおおごとになり、そんな予算もないので埋めることにしたらしいです。ちょうど、場所は斜面になっていて、地面を掘り下げてつくってありましたので、埋めれば済むとのことで、そうしたそうです(森たけ男さんが船橋市学芸員さんに確認した話)。

でも、「永久堡塁」がつくられたのがWikipediaでは日露戦争後となっていましたが、森たけ男さんは「いくらなんでも戦争が終わってから、わざわざ大きな演習用の堡塁をつくって、演習するんじゃ、タイミングがずれすぎで、おそらく1904年秋ごろにつくって、いろいろ研究したんだろう」と言っていました。

なお、日本軍が使用した二八糎榴弾砲がどれだけ大きいかは、下の写真(四街道の野戦砲兵学校跡地の前にある記念碑横の砲弾サンプル)をみると、わかります。一番右が一五糎榴弾砲の砲弾で直径一五センチの砲弾、二八糎榴弾砲の場合は、その約倍ですから、巨大。それだけ砲弾が大きいということは、大砲もでっかいということ。日本の港から旅順まで、ほんと、よく運んだなー、って感心します。

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(一番目、ニ番目の写真は森たけ男さんからの借物、三番目の写真はWikipediaから借用)