けっこう女に優しく、駄洒落おやじでもあった織田信長
織田信長というと、「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」とか、比叡山の焼討ちや長島一向一揆の弾圧をしたなど、冷酷なイメージがあります。また、新参の明智光秀、豊臣秀吉、滝川一益をとりたてる一方、譜代の家老であった林秀貞や重臣の佐久間信盛親子を追放しています。
でも、家臣の功績・能力に厳しい織田信長は、わりと女には優しいところがありました。
「羽柴秀吉室杉原氏宛消息」という秀吉の妻おねに宛てた書状では、「秀吉はおんな好きで、お前のような立派な女房がありながら、不足を言っているようだが、言語道断であり気にするな。お前は以前あったときより、ずいぶんと女振りをあげた。どこを捜してもお前ほどの女を二度と再び、あの禿鼠めが女房にすることができるものか。これより以降は身持ちを陽快にして、いかにも妻女らしい重々しさを示し、かりにも焼きもちを焼くようなことがあってはならない」という意味のことを書いています。
「羽柴秀吉室杉原氏宛消息」という秀吉の妻おねに宛てた書状では、「秀吉はおんな好きで、お前のような立派な女房がありながら、不足を言っているようだが、言語道断であり気にするな。お前は以前あったときより、ずいぶんと女振りをあげた。どこを捜してもお前ほどの女を二度と再び、あの禿鼠めが女房にすることができるものか。これより以降は身持ちを陽快にして、いかにも妻女らしい重々しさを示し、かりにも焼きもちを焼くようなことがあってはならない」という意味のことを書いています。
![イメージ 2](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/aikokunohana1938/20010101/20010101011030.jpg)
あの織田信長が、家臣の奥さんとかの女性に優しいなんて、意外。
それから、あの眉間にしわを寄せている端正な顔立ちに似合わず、駄洒落も言っています。
その昔、熱田神宮のある愛知県名古屋市の熱田は、今より海に近く熱田湊(港)という流通の拠点がありました。戦国時代に、その経済を握っていたのが、東加藤の加藤図書助順光(のぶみつ・兄)と西加藤の加藤隼人佐延隆(弟)の加藤兄弟。
桶狭間合戦のとき、織田信長の軍勢が熱田神宮で戦勝祈願をしたのですが、織田信長は自分のそばに、その加藤兄弟がいるのを見て、「今日の合戦はかとう」と言ったそうです。
桶狭間合戦のとき、織田信長の軍勢が熱田神宮で戦勝祈願をしたのですが、織田信長は自分のそばに、その加藤兄弟がいるのを見て、「今日の合戦はかとう」と言ったそうです。
最近あたしも、会社のおじさんたちの影響で、駄洒落がはげしくなってきました。洒落は、すこし控えめにしてくだしゃれ。なんちゃって。