栗田健男中将見っけ

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家にあった阿武隈という軍艦の昭和10年の記念写真を良く見ると、どこかで見たおじさんの顔。

この大佐の襟章をつけている人こそ、レイテ沖海戦のときにレイテ湾突入で謎の反転をしてしまった栗田艦隊の栗田健男さんではありませんか。

阿武隈の艦長をしてたのね。軽巡の艦長だった人がのちに海軍中将になって、艦隊を率いたんですよ。けっこうすごいと思うんだけど。
でも、なんで太平洋戦争を終結に導くような判断ミスをしたのかしら。

なんとなく、写真の栗田さん、「そんなに見るなよー」と言っているみたい。

しかし、うちはおじいさんが陸軍の野砲兵出身の少佐だったのですが、海軍に何かあったのかしら。何もなければ、この写真があるはずもなし。

うーん、謎だ。

親戚には確かに海軍で船に乗っていた人がいるそうですが、海軍機関学校を出て割と若死にしたそうです。その人のものかどうかはまだ分かりません。

レイテ沖海戦とは(メモ)
レイテ沖海戦(Battle of Leyte Gulf)とは、第二次世界大戦中の1944年10月にフィリピン・レイテ島沖で行われた、日本海軍とアメリカ海軍との戦闘のことを示す。比島沖海戦もしくはフィリピン沖海戦ともいう。シブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の4つの海戦からなる。日本側の作戦名は「捷一号作戦」。
この海戦で日本軍は米軍航空母艦3隻、駆逐艦3隻という戦果をおさめたが、武蔵など戦艦3隻、航空母艦4隻、重巡洋艦6隻、駆逐艦11隻、航空機100余機を失った。こうしてレイテ島に足場を築いた米軍によってフィリピン奪回を進められ、戦況はますます不利になった。つまり、米軍は直接日本国土を空襲できる足場を築いた一方、日本軍は、残存艦艇は燃料のない本土と燃料はあっても修理のできない南方に分断され、組織的攻撃能力を失った。
栗田艦隊のレイテ湾突入からの反転、敵のいない北へ敵を目指して進んだことは謎とされるが、連合艦隊司令部と栗田艦隊の連絡の悪さ、日本軍特有の縦割り的な組織の弊害をさらすことになった。栗田中将の決断が結果的には誤っていたことは後からみれば明らかであるが、栗田中将個人に対しては非難する声と共に同情する向きも多い。(Wikipediaの記事を参考にしました)