広瀬中佐 part2

イメージ 1

実はあたしは、広瀬中佐と白瀬大尉がごっちゃになっていて、広瀬中佐って南極を探検した人だと思っていました。お恥ずかしい。例の、もう一つの「広瀬中佐」の歌が以下。


文部省唱歌
(発表 大正元年


轟く砲音 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野はいずや」

船内隈なく 尋ぬる三度
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し

今はとボートに うつれる中佐
飛び来る弾丸に 忽ち失せて
旅順港外 恨ぞ深き
軍神広瀬と 其の名残れど


この広瀬中佐は軍神第一号。人物も立派な人だったらしいです。wikipediaによれば、

「岡藩士・広瀬友之允の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、明治18年(1885年)に退職して攻玉社を経て海軍兵学校へ入学、講道館で柔道も学ぶ。明治22年(1889年)に卒業。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番。

明治27年(1894年)の日清戦争に従軍し、明治30年(1897年)にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。旅順港などの軍事施設も見学する。その後ロシア駐在武官となり、明治35年(1902年)に帰国する。明治37年(1904年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮する。撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けるため船内を3度捜索中、ボート上で敵軍砲弾の直撃を受け戦死する、享年36。」

もうひとつ、この人の女性関係はまじめで、ロシア海軍・コヴァレフスキー少将の娘・アリアズナとの文通があった程度だといいます。

ああ、惜しいひとをなくした。あたしのおじいさんも陸軍少佐だったけど、戦争中高射砲部隊で何やってたのかしら。「撃てー」って命令するのは、もっと下っ端だとおもうけど。