つい最近たずねた柏陸軍飛行場跡

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(柏飛行場跡にある弾薬庫)
 
ついに見つけた、というか今までもあったのを知っていましたが、柏陸軍飛行場跡の弾薬庫(写真)が県道47号線から完全に露出しています。 小さな窓がありますが、人がなんとか出入りできる程度に地面から少し高いところに鉄の扉付き。高いところに窓があるのは、低いと地面の湿気でしけってしまうから? 爆発しても被害が少ないように、他に窓がないのでしょう。
なお、車に乗っていかなかったあたしは、昔の軍人とおなじように東武豊四季駅から歩いてたどり着いたのでした。 2.4kmくらいかな。 物好きだって? うーん、同志よ、ついてこい。なーんてね。
 
以前、柏陸軍飛行場について書きましたが、日中戦争の頃に敷設された陸軍の飛行場で、東京の調布や成増などと同じように首都防衛、いわゆる「帝都防空」の任務を負ったものと思います。 これは太平洋戦争当時に、各地にできた急造りの陸海軍航空基地(官民の飛行場利用や土地収用で急造したものなど)、代替滑走路とは違い、元々陸軍が設置したものです。 その当時、軍隊が駐屯することは、街づくりになるという発想があり、近衛師団経理部が動いて飛行場用地を探していたとき、当時の田中村(柏市北部の地域)も軍隊を誘致しようとしていたので、お互いのニーズがマッチして柏の十余二という開墾地に飛行場が出来たのです。 だから、太平洋戦争が激しくなって、それまで逓信省航空乗務員養成所であった松戸飛行場、印旛飛行場を陸軍が使ったケースなどとは違います。
 
柏飛行場が、他の首都圏の飛行場と違ったのは、前にも書きましたが、ロケット戦闘機秋水のための飛行場にされようとしたことです。 「秋水」とはよく切れる刀を意味し、漢詩などで使われた言葉で、海軍の秋水搭乗員養成部隊であった海軍第三一二航空隊の若い少尉さんが名づけました。 面白いことに、秋水のエンジンは陸軍が開発、機体は海軍が担当したそうで、仲の悪かった陸海軍が終戦間際には共同開発していたという珍しい例だそうです。 陸軍のエンジンを開発した場所は長野県の松本でしたが、実際の実験や滑空訓練などは柏でやっていたようで、太平洋戦争末期には荒蒔義次少佐ら航空審査部の人たちが柏飛行場に隣接した法栄寺を宿舎として、そういう研究や実験をしていました。 
 
ロケット戦闘機秋水は、離陸後3分半で高度1万メートルに達し、B29を邀撃出来る態勢になります。 そして30ミリ機関砲を使って銃撃するのですが、滞空時間はわずか10分足らず、1回降りてまた上昇し、2回くらいしか敵機を襲撃出来なかったようです。そのロケット戦闘機秋水は海軍が昭和20年(1945)7月7日に横須賀の追浜で試験飛行したのですが、燃料を3分の1しか入れていなかったのでエンジントラブルになり、事故を起こして操縦士の犬塚大尉は殉職しました。陸軍は秋水を柏飛行場に配備しようとしており、そのとき柏飛行場に駐屯していた飛行第七〇戦隊は搭乗のための身体検査を受けたそうですが、秋水が量産化され、実戦配備される前に終戦となりました。実際には配備されなかった秋水ですが、燃料庫は十余二に実験などに使われる小規模なものが、花野井に本格的なものが建設されました。 
なお、十余二の地下燃料庫はせっかく発見されたのに、千葉県の柏の葉地区の開発によりなくなる運命とか。。。一体どうなっているの?
 
松ヶ崎次郎さんの動画↓
しかし、ナレーションの女性、いったいどういう人なんだろ。 この手の動画では珍しいですよね。 もちろん、あたしではありません。
 
秋水は人間爆弾桜花や人間魚雷回天のような乗ったら必ず死ぬような特攻兵器ではありませんが、実際に搭乗要員になった海軍第三一二航空隊の人たちは、B29の編隊に突入し、三号爆弾(クラスター爆弾)か何かを爆発させるのではないかと思っていたそうです。大学や専門学校を出て海軍少尉となり、厳しい訓練に耐えて、秋水というものすごい飛行機に乗って、最期に自爆するなんて、なんという人生でしょう。 それも中国などに対する侵略戦争で始まった戦争のために亡くなるのです。 本当に切ないですよね。
 
こちらは秋水の動画↓
 
今の平和は、戦死、あるいは戦病死した軍人、戦禍によりなくなった一般民衆など多くの犠牲の上に成り立ったものです。 そして、侵略戦争は二度と繰り返してはなりません。 不戦の誓いを胸に刻み、過去の異常な時代に作られた戦争遺跡をモニュメントにする必要があるのではないでしょうか。