増上寺で人生を思う

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芝といえば、増上寺。徳川家の菩提寺ですので、葵の紋がくっきりとついています。

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あたしの会社の港区の事務所では、ご近所の増上寺で最近お花見をしました。お寺、しかも徳川家の菩提寺などで、良いのかな。

あたしは、翌日も増上寺に行きました。

増上寺の本堂で、仏様をみていると、ふと今までの自分の人生が頭に浮かんできました。自分が生まれる前のことも。

戦国時代(室町かも):
戦乱を逃れて、ご先祖様が丹波の山中に移り住みました(どこから逃げてきたか不明ですが、お父さんの話では赤松氏と関係あるらしく、加西市のほうとか)。
なお、当時から臨済宗妙心寺派の檀家だったらしいです。

江戸時代:
名主になっていた、ご先祖様は、京都?から絵師を呼び、自分の屋敷の襖に絵を描かせました(そのほか庭の松の木が樹齢だけでなく、なにかで貴重という話を聞いたような気がしますが、どう貴重なのか、もはや記憶にございません)。
明治、大正をすっ飛ばして、昭和へ。

昭和時代:
満州事変のころ、おじいさんは陸軍の学校へ、後に大阪信太山の野砲兵連隊の将校になりました。
1938年(昭和13年)10月12日、おじいさんのいた陸軍第104師団はバイヤス湾に奇襲上陸し、広東攻略戦に参加。おじいさんは太平洋戦争末期まで中国南部を転戦、内地では大阪の高射砲部隊の大隊長をしていました。

戦後、おじいさんは転職を繰り返し、最後には測量などの技術系の会社を経営。
あたしは、おじいさんから子どものころから、大砲の弾道を計算するにはどうするかとか聞いていました。それで、軍事オタクになったのかな。

お父さんは、大学卒業後、おじいさんの会社ではなく、全く別の紙の会社に入り、東京在住。
お父さんとお母さんとは、同郷結婚。東京に住んだ両親のあいだに、あたしが生まれました。生まれながらにして、標準語と丹波系関西弁のバイリンガルになる宿命を背負ったともいえます。

中学生のとき、お父さんは紙の会社を退職、結局おじいさんの会社の東京支店長になり、同時に千葉県北西部に移住。あたしは高校は東京都内の高校に進学せず、千葉の高校の理数系へ。

大学は千葉近辺ではなく、某大学工学部に入学すべく京都上洛を目指すも、家族から反対され、断念。「西宮のおじさんの家から神戸大学工学部か姫路工業大学に通うんやったら、いいけど」とお父さんから言われましたが、「あくまで京都に行かせん気だな、ダメだこりゃ」と思い、結局東京の同じくらいの難しさの工業大学に入学。工学部といっても経営学みたいなのも勉強。

高校、大学と男性が圧倒的に多い環境にいたせいか、あたしは女性ホルモンが足らないみたい。おかげで、胸は子供用のご飯茶わんを伏せた程度、興味は政治、軍事、歴史とほとんど男性のおたくと一緒。
就職は女子は厳しいと聞いてはいても、自分の番になるまで実感できず。外資系に入りかけましたが、日本の伝統的な会社のIT系分社に就職。

会社に入っても、おっちょこちょいは、相変わらず。でも、重要なプロジェクト業務に従事し、いろいろ面白い体験をさせてもらっています。自分が入りかけた外資系の会社のセッションで、プロジェクトの合宿が先日ありました。3日間缶詰で、夜1時まで討論したり、ハードでした。また最近では、会議で部長とか、上の人が順に中座し、気がついたら自分が司会をしていたということがありました。


本堂で、瞑想にふけりながら座禅をしていたあたしですが、ふと我にかえりました。「増上寺は浄土宗、禅宗じゃなかった」、あらま!、さっさと帰りましょう。  

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