旧陸軍で大隊長だった祖父

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あたしのおじいさんは、旧日本陸軍の将校(終戦当時少佐)だった人で、戦後は臨時雇いの事務員など、生活のために職を転々したあと、小さな会社を作り、その会社をある程度大きくしました。技術に明るく、独創的な中小企業経営者でした。今生きていれば、97才位になるでしょうか。

丹波の生まれで、子供の頃から頭は良かったそうですが、特に理数系が強く、大学を出て技師になるのが希望だったようです。あたしたちのルーツの土地、丹波の篠山あたりは山が多く、子供のころ西宮あたりから車で向かっている途中でも、ラジオの電波が山でさえぎられて聞き取りにくくなる場所もあったくらいです。おじいさんの実家は、旧家ですが、山あいの少し平地が広がっている場所にあります。今も、おじいさんが若い頃に使っていた背表紙に金文字の入った本が本棚いっぱいに残っています。でも、その当時は満州事変前夜の軍国主義台頭の時代であり、家の近くには篠山の陸軍歩兵第70連隊が駐屯しているという環境でしたので、おじいさんも陸軍の学校に進み、砲兵科の訓練をうけて少尉に任官しました。最初に所属した部隊は、大阪信太山の野砲兵第4連隊です。

1938年(昭和13年)6月、日中戦争の戦時編成で大阪第4師団から第104師団が特設師団として作られ、第4師団配下の野砲兵第4連隊を母体にさらに新しい第104師団配下の野砲兵第104連隊(鳳部隊)ができました。1938年(昭和13年)夏には、その連隊はソ満国境近くの張鼓峰で起きた紛争(張鼓峰事件)の対応のため、旧満州大連に駐屯・待機しました。おじいさんもその野戦行きとなった将校の一人でした。

その部隊は、張鼓峰事件のために出てきたのですが、待機しているうちに、ソ連が日本を圧倒して紛争がおわりました。ところが、おじいさんの部隊はすんなり内地帰還にならず、今度は南下して広東を攻めることになり、連隊の主力は長い行程を南に向かいました。その連隊を含め、第104師団は第21軍のなかにあり、船団を組んでバイアス湾に敵前上陸したのです。それから、恵州、広州と、日本軍は国民党軍と戦い、これを打ち破っていきました。

その後、日本軍は広東を占領、おじいさんの鳳部隊も、中国南部を転戦しました。そうして、香港・広東ルートの遮断という所期の目的は遂げられました。もちろん、これが侵略行為であることはいうまでもありません。

よく、今の人は中国軍は弱いというようですが、おじいさんに聞いた話では、昼間中国軍と戦うと、彼らは適当なところで退却するが、夜になって油断していると、すぐそこまで来ていて、夜襲をかけられる、大変粘り強く戦う軍隊だということでした。また、中国軍は逃げても、深追いすると、待ち伏せて反撃するなど、変幻自在の戦い方をするのでやりにくいそうです。その点、相手からみると、日本軍は一本調子で突撃してくるので、やりやすいのかもしれません。

ともかく、日本軍は中国軍に負けました。それは、個々の戦闘がどうこういうより、八路軍に捕虜になった日本兵が食料を十分与えられ、比較的快適に暮らしたのに対し、南京事件で日本軍が多くの中国人捕虜と民間人を殺害したという対比でも明らかな、道徳性においても日本は負けたのです。

おじいさんは、中国から終戦近くになって内地に帰り、大阪で高射砲の大隊長をつとめましたが、高高度を飛ぶB29には弾が届かず、大阪砲兵工廠などへの米軍による空襲に対して無力だった、高射砲部隊を最後に軍人としての人生にピリオドを打ったのです。

あたしが子供のころから知っている、おじいさんは、とても軍人だったと思えないような人で、数学か物理の先生みたいな感じでした。旧陸軍の関係の集まりにもあまり出なかったそうで、仕事以外では静かに本を読んでいることが多かったのです。そんなおじいさんもなくなって、もう8年ほどになります。

そんなおじいさんの子供とは思えない、あたしのお父さんは、口数が多く、それも関西弁(正確には丹波弁)丸出しのあわてんぼうです。親子で、なんで性格が違うんだろ。今は、おじいさんが創業した会社の役員をしています。あたしは、、、だいぶお父さん似なのかな。

写真は、家の庭にある万両