徳川家康は二人いた?

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徳川家康は二人いた」と明治時代に説いた人がいます。その名は村岡素一郎。

この人は明治新政府の官吏出身ですが、薩長出身ではありませんでした。1902年(明治35年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、『史疑徳川家康事蹟』と題する一冊の史書が出版されましたが、その著者が村岡素一郎さん。当時の内閣修史編修官兼東京帝国大学教授であった重野安繹文学博士がこの著書の序文に協力していますので、徳富蘇峰とともにビッグネームが名を連ねたというわけ。では、何でそんな人が、奇説をとなえたのか不思議ですが、一時これを題材にした小説などがはやりました。

村岡さんの主張は、
徳川家康の一人目は「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦い今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。」
二人目の家康が、のちに幕府を開いた家康で、最初の松平二郎三郎元信と名乗った人物ではなく、「その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである。」

また、後の家康が晩年駿府(静岡)に住んだのも、もともと岡崎出身ではなく、駿府の人間だったから、「一富士二鷹三茄子」の茄子も、家康が好んだというのは、貧しい生まれで茄子のような庶民的な食べ物を普段食べていたから、とか根拠らしいことを書いています。でも、いかにもこじつけみたい。

この本のように、二人の家康を描いた小説としては、隆慶一郎さんの『影武者徳川家康』があります。

家康が二人いたとか、明智光秀はずっと生き延びて天海僧正になったとか、面白いといえば面白いのですが。